静清信用金庫誕生

静清信用金庫昭和40年の画像
昭和40年当時の本店と静岡市街
静清信用金庫現在の画像
現在の本店

<時代背景> 静岡と信用組合

●静岡県の先行組合

静岡県では、1900年(明治33)の産業組合法成立以前の1892年(明治25)には、すでに掛川信用組合と見付報徳社連合信用組合が結成されており、両組合はいずれもわが国における信用組合としては先駆けをなすもので、金融史上重要な1ページを飾っており、それ以後、県内における信用組合の数は急速に伸び、1896年(明治29)には全国の組合総数101のうち43.5%にあたる44組合に達しました。

このような静岡県における信用組合の普及と発達は、一般的に幕末以来、報徳社組織が広範に結成されていたことによると考えられていますが、直接的には横浜開港によって茶貿易が急速に伸張したことに主な原因がありました。茶の輸出の激増は静岡県の茶の生産を急激に拡大させ、その結果として農村における資金需要が増大し、県内各地に信用組合を続出させることになりました。

●信用組合法案の提出

明治政界の重鎮であった品川弥二郎・平田東助の両氏は、早くから地方産業の発展における信用組合の重要性を認め、その設立と組織化を図り、今日の信用金庫の基礎を確立しました。

両氏が信用組合の重要性について理解をもったのは明治初期、欧州諸国に滞在中のことであったといわれ、特にドイツのシュルツェ都市信用組合とライファイゼン農村信用組合に着目して調査研究し、当時のわが国に最も適切な組合制度について構想を練り、1891年(明治24)に「信用組合法案」を議会に提出しましたが、結果的にこの法案は衆議院解散のため審議未了となってしまいました。

●産業組合法案の成立

信用組合法案は成立に至りませんでしたが、その後は農商務省がその計画を受け継いで立法化を担当することとなりました。同省案は、信用事業のほか購買・販売・生産の3事業を加えた4種の事業の兼営業を認める組合をめざすもので、「産業組合法案」と呼ばれていましたが、地方産業の振興をより一層明確にしたものといわれています。

1900年(明治33)、同法施行により既存の組合の改組、新組合の設立が全国で相次ぎ、1910年(明治43)には全国の組合数7,308組合(内、単営約30%の2,226組合)に達し、各地方産業の振興に重要な役割を果たしはじめていました。

●市街地信用組合の誕生

これらの産業組合はその設立の事情から、いずれも農民組織を基盤としていたため、農民以外の加入者は少なく、信用事業も事実上、農村信用組合としての域をでないものであり、都市の商工業者を直接対象とする組合組織はほとんど見受けられず、当時の都市中小商工業者は銀行の融資を受けられずに、市中の個人貸金業者や無尽、または頼母子講などに頼っていました。

こうした情勢に対して大蔵省は1917年(大正6)「産業組合法」を一部改正。要点は、市および市街地指定区域に特別の信用組合の設置を認めたもので、都市の商工業者・勤労者を対象とする組合員以外の貯金(一部制限付)および手形割引などを取り扱うことを認めた点にあり、法改正によって設置された都市信用組合は「市街地信用組合」という通称をもって呼ばれていました。

その後、市街地信用組合は都市における純粋な庶民金融機関として飛躍的な発展をとげ、今日の信用金庫の前身となりました。

<静清信用金庫 誕生>

●1922年(大正11)
静岡共同金庫(静清信用金庫の前身)の設立

静岡市では、漆器・竹器・木工関係など、江戸時代からの伝統産業をはじめ、明治以降には製茶業が急速に発展していましたが、第1次世界大戦後の不況は極めて厳しく、特に中小商工業者の資金難は深刻なものとなっていました。

この苦境を打開するため、静岡市選出の松本君平衆議院議員は市街地信用組合の設立を企画し、その実現を目指して指導的役割を果たし、1922年3月11日「有限責任信用組合静岡共同金庫」が創立され、県内で最も古く創設されたこの市街地信用組合が、今日の静清信用金庫の前身になるわけです。

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